私の音楽ヒストリー

~つれづれなるままに~

 

 


私の音楽ヒストリー④

灰色の青春 

 

 


 

16.高校1年

 

中3の冬休みまで音大の附属高校へ行く気満々だった私は、水戸第二高校の普通科に合格した時点で、大学こそは音大、と決めていました。

だから、入学してすぐに品川(大井町)のK先生に連絡し、ピアノレッスンの再開をお願いしました。

ツェルニー40番やバッハのインヴェンション、シンフォニア辺りを弾いていたと思います。

 

でも、高1の時は、ちょっと冒険もしてみたくて、1年間限定と決めて何と卓球部に入部しました。

実は、中学校時代に部活をやらなかった後悔があって(習志野市立第二中学校は部活動が強制でなかった)、どうしても運動部で青春の汗を流してみたかったのです。

初心者だし元々運動は得意でなかったので、卓球部では落ちこぼれでした。

でも、部室にあった誰かのお下がりのラケットを譲り受け、ペンホルダーの構えで素振り1000回、腹筋と背筋50回ずつ、土曜日は時々千波湖までヒーヒー言いながらランニングに行ったり、合宿に参加して真夜中に肝試しをやったり・・・今となっては懐かしい思い出です。

二人組で理科室に置いてある骸骨に触って来る(証拠にメモを貼り付けて来る)のは、怖かったけれど面白かったな~

 でも一番怖かったのは、1号館と2号館の間の真っ暗な廊下に、顧問の先生がモノも言わずじーっと座っている幽霊のような姿でした。

思わず「ギャーツ!」と叫んで、防御の為に持っていた竹ぼうきで、先生をひっぱたいてしまいました。汗

 

 

17.高校2年

 

「音大に行くのなら毎日4時間は練習しなさい」と先生に言われ、進学校だったので勉強もやらねばならず、ピアノと勉強だけで日が暮れる忙しい生活でした。

夕方~夜8時9時まではピアノが最優先でしたので(ご近所への気兼ねが大きく)、テレビを見る時間など全く無く、お陰で高校時代に流行ったドラマ、歌謡曲などの記憶がぽっかり抜けています。

学校でも、友だちと話が合わず、「ピアノ気違い」のようでしたが、ピアノ科に進むならピアノに全てを捧げるのは当たり前だと思っていました。

 

しかし、東京までレッスンに通いながら頑張ったのに、残念ながら自分のピアノは、願うほどには上手くなっていかなかったのです。

 

 

 

 

18.先生を変える

 

私は、知らず知らずのうち、力んで叩くような弾き方になってしまっていました。

今のように、コンクールやステップなどが頻繁にある時代ではなかったので、自分の弾き方を客観的に見直す機会がなく、よくわからぬままに、何だか下手だな~、と思っていました。

 

もう一つ、私はどこの音楽大学に行くのか自分で考えて決めることができず、はじめから東京音大を受ける(=しか受けられない)というのは、制約のように感じてちょっと疑問でした。受験生の立場では有り難いお話と感謝すべきだったのかもしれませんけれど。

 

また、K先生が、井口基成先生が編集した春秋社の楽譜ばかりを、バッハでもモーツァルトでもベートーヴェンでも使いなさいと仰るのは、押しつけられるように感じてしまい、それもちょっと嫌でした。

春秋社の楽譜を使うことが、その当時、東京音大の教授だった井口愛子先生(基成先生の妹さん)への敬意を表すことになるのはわかる。

けれど、楽譜の中身の良さをこそ使う理由にしてほしい、と思いました。

多感な年頃ゆえの正義感があったのですね。

 

そんな折、母の友人が、お嬢さんが習っているピアノの先生を

「穏やかでとてもいい先生ですよ、どこの大学でも受けさせてくださいます」

と、紹介してくださり、先生を替わることに決めました。

 

K先生には

「最近、弾いても弾いても上手にならず悩んでいます。勉強を頑張りたいと思います」

と、申し上げてお別れしました。

 

 

 

先生は、最後まで、私が貸して差し上げた発表会の録音テープを返してくださらなかったのですが、そんなところにも反発があった私でした。

 

 

 

※因みに私は、今でも春秋社の楽譜を持っており、時々使っています。原典版と違い強弱記号がうるさく感じることもありますが、指使いなどが参考になりますので。

楽譜は、見比べて活用すれば良いのですよね。

 

 

 

 

19.お世話になったA先生

 

高校2年の途中から師事した柏市のA先生は、本当に尊敬できる先生でした。

力任せに叩く私の弾き方を、ハノンの1番から順にレッスンしながら直して行ってくださいました。

あまり褒めてはくださらなかったけれど(だから1年に1度位褒められると、とても嬉しかった)、語り口が穏やかで紳士的でした。

 

先生の元で、ツェルニー50番、60番、平均律1巻、2巻、モーツァルトやベートーヴェンのソナタ、シューマン、ドビュッシー、モシュコフスキー、など沢山学びました。

今の自分があるのは、A先生のお陰です。

 

先生には大学卒業までお世話になり、その後も令和元年にお亡くなりになるまで、毎年近況報告をしていました。

 

 

 

 

 

20.しっちゃかめっちゃかだった大学受験

 

思えばいつも、勉強とピアノの2足の草鞋を履いて、どっちつかずでヨタヨタしていた自分です。

 

高3の冬休みには、武蔵野音楽大学の冬期講習に参加しました。

武蔵野の入試試験曲「ソナタKV333/モーツァルト」は、運良くその年の千葉大教育学部音楽科中学校教員養成課程の試験曲と重なっていたので、両方受けるんだ!と意気込んでいました。

 

でも、冬期講習から帰って来て、私は人生2度目の、土壇場で線路から飛び降りる決断をしたのです。

(1度目は中3の冬休みに、音高受験を辞めて県立の普通科に進路変更しました)

 

マズイ、このままでは音大も国立もどっちもダメだ・・・

あっちこっちもでは、焦点が合わない。

国立受験の5教科の勉強をし、それだけでも手一杯なのに、その上、音大受験のピアノの練習をするのは・・・・・

 

迷った末、「えい!」と、今度は、音大へは行かない、国立の教育学部音楽科を第一志望にする、私立は受けない、と決めたのです。

 

理由は、

①ピアノを学びながら、普通の学科もバランス良く学びたい。

②高校が女子校だったので、共学に行きたい。

③自分のふるさと、千葉大に行きたい。

この3点でした。

 

こうして自ら、滑り止めが無いという、断崖絶壁の上に立ったのでした。

 

それにしてもどうして、いつもいつも土壇場にならないと決められないのか?

全くあきれてしまいます。

 

とにかく5教科の勉強とソナタに集中し、受験するのは、国立1期校(千葉大)と2期校(茨城大)のみにしぼることにしました。

 

浪人したら翌年は共通一次が始まる、という厳しい学年だったこともあり、プレッシャーたるや、もう死にそうなほど。

精神的に追い詰められて、1月2月は真っ暗闇のトンネルの中。

いつも青い顔をしていました。

 

数学が難しい。

英語も難しい。

古文漢文も難しい。

日本史も覚えられない。

頭がパンパン。

目がチカチカ。

胃が痛い。本当に痛い。

 

そして、とうとう

「もうダメだ、間に合わない」と、最後の最後で、千葉大の受験を中学校教員課程から小学校教員課程へ変更しました。

ちょっとでも入りやすい方へ、と苦し紛れに偏差値の低い方へレベルを下げたのです。

その結果、これまでずっと頑張ってきたピアノ実技でモーツァルトのソナタを弾くチャンスをみすみす逃してまで学科に賭けたものの、

千葉大の結果は不合格でした。

 

その後、茨城大学教育学部中学校教員養成課程に何とか合格できたので、浪人はしないですみ、ほっとしましたが、本当に自分が行きたい学校は千葉大だったので、ちょっとほろ苦い気分でした。

 

親からは、武蔵野受験を取りやめたことと、家から近い地元の大学に進学することになったお陰で、経済的に大層親孝行だと感謝されましたけれど。

 

 

 

 私の音楽ヒストリー①

 私の音楽ヒストリー②

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